プログラマー/アーティスト 真鍋大度
@Manamiです。
昨日こんなテレビ番組を見ました。
プロフェッショナル 仕事の流儀 プログラマー/アーティスト 真鍋大度
彼はプログラマーでありアーティスト。
簡単に経歴を調べてみると、東京理科大を卒業したのち、大手電機企業でシステムエンジニアをしたのちに退職し、IAMAS(岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー)に進学。その後2006年株式会社ライゾマティクスを設立し、その後も数々の受賞歴をもつクリエイターだということです。
フィギュアスケートのエキシビションやPerfumeのライブ、東京オリンピック招致の映像から、有名CMまで。数多の分野で世界を驚かす表現を生み出し続けている真鍋。
真鍋が表現を生み出すときに大前提にしているのが、誰もやらないことをやる、という至極シンプルなことだ。たとえクライアントから、「○○○のようにしてほしい」と前例を出されても、絶対に同じものは作らない。真鍋が関わる限り、何か新しいこと、誰もやっていないことを盛り込む努力を必ずするという。
引用元:プロフェッショナル 仕事の流儀 プログラマー/アーティスト 真鍋大度
「Perfume」カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバル」でもサイバー部門で銀賞(SILVER LION)を受賞
とにかく今とても注目されているクリエイターの一人です。
何がすごいかわからないけれど感動する
私はPerfumeが好きなのでperfumeを作り上げるクリエイターの一人として注目しているのですが、上の動画ではperfumeが踊る動きに合わせて映像がリアルタイムで動き、「なんかものすごく」かっこいいのです。
センサーで動くのではなく赤外線で動き、なおかつそれがリアルタイムで時間の誤差なく動くのが「すごい」(エンジニア夫談)らしいのですが、文系女子の私には「とにかくなんとなくすごい!かっこいい!」という種類の感動があります。
この「感動」を因数分解してみると、すごさレベルがわからない、つまりこの技術に対する「すごさ」ものさしがないからこそ、感動する!というものだなあと改めて感じました。
「理解できないけれど、すごさが伝わるところがすごい」
これが彼の真髄、そして世の中にある数々の「すごい」とされているものの本質なのかなあと思います。
「すごさものさし」を持っている人がたくさん現れたら
じゃあ、その「すごさものさし」を持っている人が世の中に蔓延れば、どうなるでしょう?
「とにかく理解できないけれど、すごさが伝わるところがすごい」なんて感想はもしかしたらなくなってしまって、
「この技術は○○の技術レベルが▲程度だから、この前の■と変わらないし何もすごくないよ」的な感想の人で蔓延してしまうのでしょうか。例えば。
これってなんだかとても悲しい気がします。
何事にもものさしを持って物事を見ることはとても重要だとは思いますが、世の中全員の人がそれを身に着けてしまったとしたら。
「すごい」ものも「すごく」なくなってしまって、人々に感動を与えられるものは、「すごい人」が「すごい」と評価するものだけが感動の対象になってしまう。
でもそれってそんな数多く存在するわけではなくって、結局はどんどん競争の激しい世界になってしまう。
するとすごいものを生み出す人々は生みの苦しみを味わう機会が増えるのではないか。しかしそれがまた技術や次の世代への進歩へと繋がっていくのではないか。と勝手に思っています。
絶妙なバランスで世の中は成り立っている
少しそれましたが、だからこそ世の中は、「すごさ」を生み出すごく一部の人間と、何がすごいかわからないけれど、単純に「すごい」と感動できる人間の絶妙なバランスで成り立っている、と思います。
人間全員がものさしを持っている集団になってしまってもだめだし、ものさしを持っていない集団になっても何も感動が生まれない。一方に集中しすぎてもだめで、この両者のバランスあってこそが「感動」を生み出す根源的な土台なのかなあー
なんて、夫婦で会話したので記事に書いておきました。
まとめ
「理解はできないけれど、すごさが伝わるところがすごい」
「すごい」だけではだめで、そのすごさが「伝わるかどうか」。
物事を生み出す人の思考として大切だと思いました。